第一篇:日本语における暧昧表现についての研究_日语毕业论文
吉林大学公共外国语教育学院
毕业论文
(202_级)
日本における暧昧表现についての研究
日语中暖昧语的研究
姓
名:冯子义 专
业:应用日语 二〇一〇年十月
0
日文摘要
曖昧語の特色は、婉曲であり、含蓄があり、人々に愉快的、優しい人間関係を持つので、日本人は大好きだ。環境の影響から、日本は個島国で、それは明らかに大陸教養ある言語の特徴と違って、明らかな差別があって、単一の民族、単一の言語。これに独特である言語環境には、日本人に言語方面を交流することを考えることによって恵まれた好都合があって、互いの間に率直に言いたくなくて、ただあいまいな婉の回った言葉がすぐ真髄を味得したことをとる。大陸文化の影響から、日本文化は儒家の考えた影響が深さを受けて、貴とすることと”、“礼は正義でありへりくだる”は日本人の処世として考えて、今日に依然として重点的に求めた作用を発揮する。关键词
婉曲 人間関係 貴とすることと 礼は正義 中文摘要
暧昧语的特色婉转,因为其具有暗示性,能给人们带来愉快的、和善的人际关系,因此日本人非常喜欢。日本人很热衷于不明确的表示态度,以及使用比较暧昧的表达方式。他们总是回避问题的实质,用这样的方法来避免矛盾的激化。从环境的影响看日本是个岛国,它有着明显区别于大陆文化的语言的特征,有着明显的差别,单一的民族、单一的语言。从大陆文化的影响看,日本文化受儒家思想的影响很深,“和为贵”、“礼义谦让”作为日本人的处世思想,在今天依旧发挥着重要的作用。关键词
婉转 人际关系 和为贵 礼义谦让
目录
第一章
开始···································3 第二章
日常对话的暧昧表现·····················3 第三章
分析日本人用暧昧语的原因···············4 第四章
第五章
暧昧与态度·····························6 总结···································7 主要参考文献···························8 2
日本人は曖昧な言語を喜ぶから、食い違いを隠すには、問題の実質を回避して、衝突に矛盾の激化を避ける。曖昧語は日本文化中の最も重要な特点の一つで、日本社会のいろいろな特徴を発見すべきである。本文は日本語を持って背景として、言語のこの鏡によって、日常生活中のあいまいな表現を描写し、さらにあいまい語を生じる原因を分析する。従って、日本の伝統文化を尊重し、日本人は含蓄で、「和を以って尊重する」の性格の理解する。
一、はじめに
芳贺は「日常言語では、語て他の語の意味の境界,けじめがはっきりしなかったり、一つの語の意味内容が確定しにくかったり、あいまいである。」という。(1996.1)これは曖昧語の定義であろう。日本人はよく曖昧語を使っている。曖昧性は日本本言語の重要な特徴だけでなく、日本人の伝統生活の態度を反映する。同時に日本民族の文化個性および生活倫理も反映する。
曖昧語の特色は、婉曲であり、含蓄があり、人々に愉快的、優しい人間関係を持つので、日本人は大好きだ。しかし、多くの外国人は理解できない。実は、世界的範囲から見えば、中国語でも、英語でも、曖昧な表現のない言語はどこにも存在しないように思うが、ただ日本人は特に曖昧語を喜ぶ。
どうして日本人はそんなに曖昧語が好きなのか、ここでは日本人が普段何気なく使っている言葉を例に日本人の曖昧さを捉えていく。
二、日常会話の曖昧の表現 1.挨拶の類
日本人が町で知人と出会いの時は、常に公式化したあいまいのあいさつの語を使用する。たとえば、A:こんにちは。おでかけですか。
B:こんにちは、ちょっとそこまで。
A:そうですか、気をつけて。
B:どうも。
その会話での表した「ちょっとそこまで」中の「そこまで」はいったいどこかわからない。答え者のBははっきりと言わない。それと同じように尋ねるAの人は実際にBの人がどこへ行くことか質問せずに、同様に相手もどこかが行くことがさっぱりわからない。答え者のBも一体どこへ行くかと返答しない。しかも日本人は相手「どちらへお出かけですか」と質問しているのは、決して相手の行き先が知りたいわけではない。ただ知人の間の挨拶する。答え者のBは直ちに心で悟る「ちょっとそこまで」に回答する。こちらの「ちょっとそこまで」、実は「ご心配なく」の同
義語であろう。相手に自分で行くの具体的場所を告げることがない。したがって、問い者は相手が具体的にどこへ行くかが質問しなく、ただ関心することを示して、こちらが当然で根掘り葉掘り聞いたのではなくて、直ちに「そうですか、お気をつけて」と答える。そのあいさつの仕方は欧米の人にふさわしくない。互に知らない人に使用すれば、相手を怒らせることがかもしれない。欧米の人は個人が「どこへ行くか」というのは完全に私的自由で、問い詰めることは相手を干渉して道理がない行為であろう。各国の歴史と文化背景が違うからそれぞれの民族の間、形成された心理黙契の程度あるいは思惟の方式も違う。
2.多義語の類
日本人はよく「どうも」を使っている。たとえば、「どうもだめな」、「先日はどうも」、「先ほどはどうも」、「どうもありがとう」、「どうもすみません」、「これはどうも」、「どうも、どうも面倒をおかけしました」などあげればきりない。「どうも」について調べていると、「どうしても」、「いかにすれでも」、「まったく」の三つの意味がある。つまり、仕方がない、どうしてよいかわからない、なすすべがないといったの意味がある。
多義語であるがゆえに、日本人特有な語感、つまり、さまざまな意味をひとつの語句で表現したがために、外国人には曖昧だという印象を与えてしまったのであろう。こんな言葉や表現が日本語に数多く存在している。たとえば、「くやしい」という言葉には、「試合に負けて悔しい」、「彼はやりたい事はやった。悔しい死ではない」などの例がある。あるいは、「しかたがない」という日本語には、「女だから仕方がないんじゃないのといってあきらめてしまう場合もある」「選挙に負けたのだから、文句をいってもしかたがない」「娘がかわいくてしかたがない」などである。
日本語には類似の表現は多いので、あげればきりがない。日本人特有な語感は外国人たちにとって、非常に難しく理解と考えている。
なぜ日本人はそんなに曖昧な言語を好むのだろうか。これから具体的な原因を述べたいと思う。
三、日本人の曖昧さの原因を分析
1.「以心伝心」の交流方式
「以心伝心」の意味は「思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること」(広辞苑による)あるいは、言葉や文字を使わないで心から悟った内容を伝えることであろう。日本人は日常生活で、一般的に言うことは曖昧だという印象を与えている。はっきりしなく、含み、婉曲で、これは事実であろう。日本人と話し合うす
る時に、言葉の中にあらわしていない一部分を理解し、既に、心写真宣「以心伝心」のあの一部分の意味であろう。ときどきに、確かに人に推測し判断し難くする。多義語を広範な使用を見つけることができる。
日本人は明確に態度を表明せずに、あいまいであることを喜び、常々に、食い違いを隠すには、問題の実質を回避して、衝突に矛盾の激化を避ける。だが、言語文字そのものはあいまいで、含み、絶対的に日本の固有のものではない。少しの日本と外国の学者が特に日本を強調するこのあいまいさとロジックに合わない性と、実は、この現象は中国人と他の外国人の言語生活中にも少なくない。ただ日本語はもっと目立つことであろう。
私の考えでは、日本人のあいまいな特徴は日本人が単一の民族から構成した農耕型島国であると関係がある.実は、あいまいであることは、ただ外国人の立場から見るとあいまいさがある。日本人はたくさんのものは前もってすでに文化圏内の常識になるから、何にも話しなくで、すぐわかることができる.しかし、外国人と付き合う時に、彼らは外国人と「以心伝心」を完成しにくいと見つける。それで、多くの人が外国人と付き合いたがらない。どんな事でも全部はっきり話して、白と黒を分けるということは日本人にとって、苦しくと感じている.しかし、現在は経済上で外国と離れられない。だから彼らは外国人と付き合うためにいろいろな努力をしているそうである.2.直接的に「いいえ」を話さない民族
日本の公衆のところでは常に耳にするのは「遠慮」という言葉である。たとえば、「電車中に携帯電話の使用を、ご遠慮ください」の布告。この語の第一の意味は中国語と同じように、「じっくりと考える」の意味もあるが、ただこちらにかえって「電車のなかで携帯電話を使用しない」と理解することが当然だ。日本人は「遠慮」こんな婉曲勧告の型の話しぶりを用いることを喜ぶのに対して、他の言語中に強烈であり直接的話しぶりを用いる表した文型である。こんなにはっきりしない文型はただ恐らく日本人にしか適合しないであろう。
たとえば、中国の公衆場所ではこういう布告がはっきりと書いてある:「空港内に禁煙する」、「痰を吐くことを厳禁する」、「博物館内に撮影することを禁止する」。しかし、日本人が「空港内に喫煙をご遠慮ください」」という言い方に換えて、「痰を吐くのをご遠慮ください」、「博物館内に撮影をご遠慮ください」。しかし、中国人はこれを「喫煙できるが、避けたほうがいい」などと誤解しまう。
「いいえ」を話さなくて、人に直接に拒絶しないで、それで相手に対する傷害を避けられる。だが、直接に拒絶しないとは絶対に拒絶しないというわけではない。それは巧みで丁寧な言い方だから、相手に困らせないと思うわけである。これはいわゆる日本人の特有の特技と物事を処理する技巧で、同様に彼らの集団意識の一種の
屈折した表現である.3.「和を以って尊重する」の性格
日本人の価値観といえば、もっとも顕著なものは「和を以って尊重する」というものだと思う。この日本人の座右の銘が、日本人社会に同質性と集団性を特徴つけたと思われる。集団の中では、日本人は何よりも「和」を重んじているので、周囲の人や、話の相手に傷つけたり、困らせたり、恥をかかせたりなどといった言語行動を極力避けているのである。この行為を美徳としている日本人の中で、「争わない」、「遠慮する」ことが多い。この「和」は帰納して二点がある:第一は、大和民族の重んじるのは団結することである;第二は、外国文化を十分に吸収し、調和する.日本人は二個の方面で他人の羨望を集めるほど成就を取得する。日本史上の第一部の憲法-「十七条の憲法」中の第一条は、中国論語の中から「和をもって尊重する」を取ったという.これを見たら、日本人は非常に「和」を重視するのがわかった。これは日本人の神通力を持つ宝器であろう。四、曖昧語の態度について
1.外国人の態度
よく「日本語はとても曖昧である」という批判を耳にする。これは、日本人社会のみならず、世界にも、もはや定着した見方のように思われる。日本人の行為と態度のあいまいさは誰でも知っている。この言語、行為と態度上のあいまいさは時々外国人の不理解を受け取る。日本人の態度をつかみにくいと感じている.例えば:日本人ははっきり自分の想念を主張しないで、同様に「イエス、ノ」も明確に切り出すことができなく、それで国際時代のものと呼ばれている今日、国と国の間で、人と人が交流が発展しつつあり、多くの外国留学生は日本へ行って日本語を勉強し、直接的に日本人と触れる機会に多くなっている。しかし、仮に非常に日本語を身につけても外国人にとっては日本語の言語の習慣が深く理解できないが、まっすぐに言い表すことをとって、双方が良く交流不能なことの情況が常に引き起す。特に日本語中のあいまい語は私たちにとって理解することが難しい。[あいまい]の意味は「はっきりしなく、曖昧な」、言い表したいと考える事情を直接に言わないで婉曲で言い表し、相手に推測させ、意味を推察させる。これはよく日本語の表す習慣と日本文化を深く理解できない外国人を戸惑わせることになって、誤解することを引き起こすことに至る。2.日本文化を尊重する
つまり、日本人の曖昧さの原因も二点がある:
一、人の感情を傷つけたくないということ。「嫌われるのを極度に恐れているので感情をあまり出せない」たとえば、「以心伝心」の交流の方式と「いいえ」を話さない性格。
二、良い人間関係を築きたいということ。「人と仲よく人間関係を形成する」。これは「和」を保つこと
を希望するのである。たとえば、「和を以って尊重する」という性格である。
日本語は曖昧だとよく批判されていると思うが、その理由もわかるわけである。しかし、これは日本語の文化の一部だけで、長い間の人間の交流の成果である。あいまいさは日本語言語文化の著しい特点の一つである。それは日本人の伝統的な生き方を反映するばかりでなく、同様に全体日本民族の文化の生活倫理を反映している.日本語のあいまいな表現形式上の多様さは、内容は充実する.屈折して回って、人に愉快な社会環境を調和した人脈ができ、日本人は非常に喜ぶ。日本の独特な社会環境と生活条件はこの独特な言語文化を創造したのである.それで、日本人の曖昧さを尊重しなければならない。
五、おわりに
日本人が話すときに相手の心理を非常に重視し、換言すれば充分に相手の気持ちを考慮していて、できるだけ相手を傷かないように、再三措辞を練てから、また言い表し出す。曖昧さや婉曲を好むという日本人の性向が日本人の根本に根ざしているものだとよく理解しなければいけないと思う。
私たちは日本語科の学生としてこの言語のあいまいさを把握するべきだ。それはすでに日本語その言語の性格を反映し、日本社会文化の一種の体現であろう。それを分析する時、私たちは日本語をいっそうよく認識性ばかりでなく、同時にまだ日本文化のいろいろな特徴を発見すべきである。しかし、私は知識が浅いので、本文はまだ表層の現象しか分析できない。これからもっとこの問題を研究していきたいと思う。
参考文献:
1、李兆忠 暧昧的日本人 金城出版社 202_
2、徐昌华 语用、认知与日语学习北京大学出版社 202_
3、林桦 刹那樱花——一个中国白领的日本印象 中信出版社 202_
4、鲁思.本尼迪克特 菊花与刀 九洲出版社 202_
5、大江健三郎 我在暧昧的日本 南海出版社 202_
6、加藤周一 夕阳妄语 朝日新闻社 202_
7、真田信治 日本社会语言学 中国书籍出版社
8、张丹宇 日本人的暧昧表现及其心理 日语知识 202_
第二篇:日本语の勉强について
日本語の勉強について
幼い頃からアニメを見ることが好きです。日本のアニメは世界最強だとよく言わる。だから日本語を勉強し始める。アニメを見るとき、最初は日本語が全然わからな意だ。だんだん単語を暗記して、文法を勉強して初めてアニメ中のセリフがわかりました。そんなうれしい気持ちは今でも覚えます。英語でも日本語でも、どんな言語も一気に習得できない。知識は少しずつ蓄積されるものだ。単語が忘れたとか文法が間違ったとか、そんなことよくある。私、努力しなければなりない。よく自分にそう言う。
将来、日本人と簡単に交流できるように頑張る。まず、聴力が一番だと思う。
相手の言うことを分からなければ、交流がどうすれば進むだろう。だから、アニメをよく見て聴力のレベルを高めて、きっと将来交流ができる時が来ると思う。
第三篇:日本语における主语の省略
日本語における主語の省略
日本語の主語は頻繁に省略されます。省略というより、主語はないのが基本で、必要な時だけ用いる「表出」とする考え方もあります。事実、日本語では「私」を対象化して主語にせず、省略し、それでいて「私」の行動であることを伝える表現が多くあります。「私が私が」という自己主張の強い表現を避ける日本語の傾向がその背景にあるようです。今回はそんな日本語における主語の省略について書いていこうと思います。
まず、主語が頻繁に省略されるポイントについて以下に挙げていきます。
A.話し手(書き手)
B.行動の主体が誰であるかが問われない総称的な主語
C.同じような要素が連続して現れる場合で先にでてきた言葉
D.状況(ジェスチャーを含む)から見て言わずとも分かる場合A.話し手(書き手)は頻繁に省略されます。
「誰が」ということを言わなかった場合、その「誰が」に当たる第一候補は話し手(書き手)自身となることが省略の理由です。
例:
1.このままではまずいのではないかと(私は)思う。
2.(私は)どうしてもあの服が買いたい。
3.(私は)始めるとするか。
4.(私は)この絵を彼に描いてもらったのです。
5.(私は)拝見いたします。
B.行動の主体が誰であるかが問われない総称的な主語の場合、主語は省略されます。
例:
1.あの地域では、(Aが)熊に遭遇する可能性がある。
2.(Aが)毎日飲み歩くのは健康によくない。
3.(Aは)この事件を世界金融危機と呼ぶ。
4.(Aは)肉に塩を振り、しばらく寝かせる。
5.(Aは)お酒を未成年に販売してはいけない。
6.(Aは)この試験に合格すれば、昇進できる。
C.同じような要素が連続して現れる場合、先にでてきた言葉は実質的な意味を失うため、省略されることが多くなります。これは文章の冗長さを避けるためです。
例:
1.まもなく(時間が)正午になります。
2.タクシーに乗ると、(金額が)20,000円もかかる。
D.状況(ジェスチャーを含む)から見て言わずとも分かるだろうという主観的な判断に基づき、表現対象(主語)が省略されます。いわゆる暗黙の了解とい
う、極めて状況依存的かつ主観的、あいまいな省略である一方で、日本文化を特徴的に表す現象とも言えます。
例:
1.(曇り空を見上げて)(雨が)降ってきそうですね。
2.俺に任せておけば(○○は)大丈夫だ。
3.(経済指標のデータを見て)(○○は)危ないですね。
省略の基本は、前と同じ要素が出てきた場合は省略できるということです。しかしながら、本当に同じ要素と言えるかどうかについては慎重な判断が必要です。仮にAという主語が前後して出てきた場合でも、文脈の展開によって後出のAはすでに前出のAと同一ではない、ということがあるからです。
さて、逆の視点から見て、どのような場合は省略しにくい、または省略できないのでしょうか。省略しにくい、省略できないポイントについて以下に挙げていきます。
a.省略すると混同を招く場合b.文と文の間に存在する意味上の距離が遠い場合c.文と文の間に存在する物理的な距離が遠い場合a.省略すると混同を招く場合は省略できません。
例:少年は万引きをした時、警察官がこちらを見ているのに気づいた。だが(少
年は/警察官は)何事もなかったように立ち去った。
上記の例では、立ち去ったのは「少年」である可能性も、「警察官」である可能性もあり、省略してしまうと意味不明な文章になってしまいます。
b.文と文の間には意味上の距離があります。意味上の距離が近いと省略しやすく、遠いと省略しにくくなります。
例:
1.Aは大学院進学に当たってゼミの指導教授に推薦状を書いてもらった。(Aは)大学院進学が決まると、すぐに礼状を書いて出した。(順接)
2.Aは大学院進学に当たってゼミの指導教授に推薦状を書いてもらった。(Aは)大学院進学が決まっても、しばらく礼状を書かなかった。(逆接)
同じ主語の省略でも、1.の方がスムーズに感じられます。これが意味上の距離で、文の間に存在する意味上の距離が1.の方が近いということです。一方、2.の場合は意味上の距離が遠く、「Aは」という主語を省略しないほうが自然でしょう。
なお、意味上の距離が存在する場合の対応方法として、以下の2つの方法があります。
1)主語を省略しない
2)接続詞を補う
1)については、意味上の距離を保ちつつ、新たな話題が始まるという感じが加わることに注意してください。2)については、純粋に意味上の距離を縮め
る作用があります。
2)の例:
Aは大学院進学に当たってゼミの指導教授に推薦状を書いてもらった。しかし、(Aは)大学院進学が決まっても、しばらく礼状を書かなかった。
接続詞の作用によって距離が縮まり、不自然さがなくなったと感じられます。
意味上の距離が近い場合に主語を省略しない用法では意味上の距離を保ちつつ、新たな話題が始まる効果があるのに対し、省略する用法には文にまとまりを持たせる効果があります。そのため、省略してもしなくても良い場合、同一の段落(または話題)内においては省略することで文章にまとまりをもたせ、段落(または話題)が変わったところでは省略しないことで新たな話題が始まるという感覚を加える用法が効果的です。
C.文と文の間に存在する物理的な距離が遠い場合、同じ要素であっても、省略しにくいものです。例えば2つの主語の間が10ページも離れていると言う場合には、新出の主語として扱い、省略しないのが妥当でしょう。(文:間仁田)
第四篇:青春について感想日语
青春について感想
青春といえば、いろいろな感想がある。二十歳になった時に、ぼつぼつにおいっていると思う、光陰矢の如しで、時間は不思議な事だね。辞書の中に青春とは青春時代、若い人の年齢、その他の意味は青春期で、10と20の若者の時代だ。人は誰にも自分の青春があるではないでしょうか。青春について愛情と友情な思い出がたくさんあるだろうか、うれしいとか、くるしいとか、気分にかかわらず、自分の人生の大切な思い出かもしれない。しかし、現在の私は、なぜ青春を考えて寂しい気分があるだろうか。
第五篇:日本における宗教
日本における宗教の信者数は,文部科学省の宗教统计调査によると,神道系が约 1 亿 700 万人,仏教系が约 8,900 万人,キリスト教系が约 300 万人,その他约 1,000 万人,合计 2 亿 900 万人となり, 日本の総人口の 2 倍弱の信者数になる.神道系と仏教系だけで 2 亿人 [1] にせまる.この要因として,以下が挙げられている.
统计调査はアンケートで行うため,必然的に自団体の信者数を多めに申告する倾 向にある.日本古来の民族信仰の基盘の上に,自然风土の中で培われた年中行事や,祭礼な どを通じて,多くの日本人が七五三や初诣,あるいは季节の祭りを神社で行い, 江戸时代の寺请制度の影响で,葬式やお盆などを仏教式で行うなど,复数の宗教 にまたがって仪礼に参加している.他国では洗礼を受けた时点でその宗教の信者 に成るのに対し,日本ではその宗教の神を拝めば信者とみなすわけで,氏子·檀 家の家庭に新たな子供が生まれるとそのまま信者数にカウントしてしまう.また, 死亡しても信者リストから外すことなく放置するなどの例もある
二宫尊徳の话をまとめた『二宫翁夜话』という书物には,宗教多元主义を示す次のような 譬え话も含まれている.「世の中に本当の真理はただ一つしかないが,その真理に近づく入り口はいくつもある.神道,仏教,あるいは仏教でも天台宗,浄土宗,真言宗などいろいろあるが,これらは何 れも, いくつもある真理への入り口に付いている小道の名前に过ぎない.例えば富士山に 登るのに,吉田から,须走りから,须山から,それぞれ登れるが,最终的に顶上に至れば 同じ所である.これを, 违う目的に到达できる别々の道がある, と考えるのは误りである.入り口が几つもあっても,最终的に到达する场所は,一つである.それは,诚である.と ころが世の中では,これらを别々な道であると言い,真理が几つもあるように言ってい る.」
日本人と 日本人と宗教 日本人は无宗教である,と欧米人からよくいわれる.また日本人は无神论者である,と 自ら公言したりする.しかし, 日本人は无宗教でも无神论者でもないことは明らかである.欧米人とはちがう神とのかかわり方を持っているからそのように感じるだけである.欧米 の宗教であるキリスト教などにおいて「God」は最高かつ唯一の存在である.しかし日本 における「神」は至る所にいて,様々な役割を持っている.日本の「神」はどれもが等し く人々の信仰の対象になりうるのである.しかし,日本で信仰を集める存在はなにも神社や祠,神棚にに祭られている「神
」だけ ではない.それ以外にも仏教の「仏」という存在もある.名称は违っているが,信仰の対 象という点では「仏」も「神」も同様の存在ということができる.日本人の不思议なとこ ろは,同一の个人が「神」も「仏」も同时に信仰できることである.土着の信仰が仏教の 信仰の下に完全に组み込まれてしまうという, 仏教が伝来した地域でも他に例を见ない特 异な习合が起こったことが日本の不思议なところである.この不思议な信仰は明治の神仏分离の以后も引き続き存在し, 日本人は现在でもさまざ まな人生仪礼などで无差别に各宗教施设に诣る.生まれたときや七五三などは神社に, そ して死を迎え葬式は仏式である.また结婚式をキリスト教教会で行なうこともある.これ が普通の日本人の姿である.この, 一见无节操にも思える日本人の宗教観を理解すること が日本人と宗教の関系を见ていく上でたいへん重要である.
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この浮気性の日本人の宗教観はどういうことであろうか.复数の神が存在している泛神 论的な宗教観ならいざ知らず, その宗教の壁すらも存在していないのだから.日本人にと って信仰という行为そのものが存在しないかのようにも见える.しかし, その宗教の垣根 がないというのが,日本人の宗教観である.あえていうなら,超泛神论である.日本人はあらゆる物に神を见いだしてきた.住んでいる土地,家,始祖,锅,镰,はて はトイレまで,何にでも神を见いだしてきた.さらに,国家が安定し,経済活动が活発に なるにつれてひろく交流が行なわれるようになると, 神もさまざまな能力を特化させるよ うになり, 商売繁盛や病の治愈などひとびとの愿いを闻き届けるようになる.そうなると, その神は村の神ではなくなり,神の力が及ぶ范囲も氏子を超えていってしまうのである.国家建国の神でもないのにやがて,日本全国に信者が出现するのである.もちろん,それ には御师と呼ばれる神社の営业マンの存在があってのことである.日本の神社の中心であ る伊势神宫にしたところで, 御师によって信者を获得していったのであるから, なにより も宣伝活动が大切だったのである.もちろん, 新たな外部の神を信仰できるのも, 超泛神论的な素地があったからにほかな らないのではないか.したがって, 日本人にとって后発の宗教であったキリスト教もかつ ての御师のような宣伝活动が効を奏し,その「ご利益」(キリスト教の场合はファッショ ン性の方が大きかもしれないが)が认められた结果, 宗教として认められ
るようになった とも考えることができるだろう.もちろん, 长期间の政治的排斥政策も関系はしているだ ろうが.このように日本人にとって宗教というものは単一の深远な体系よりも, 自分たちの生活 に深くかかわることが最优先なのである.言い换えれば,自分たちにとって望ましい「ご 利益」 を与えてくれれば, それはなんであれ信仰の対象になりうるのである.したがって, 日本人の愿いの数だけ神や仏が必要なのである.「鰯の头も信心から」これが日本人と宗 教のかかわり方をよく表している言叶といえるのではないだろうか.から多くの日本人 日本人は どんなものにも神 魂 が っていると考えてきました.昔から多くの日本人は,どんなものにも神(魂)が宿っていると考えてきました.道端に ちている石にも,小川に れる水 道端に落ちている石にも,小川に流れる水にさえも ですら无駄にはしまいという慎ましさを持 无駄にはしまいという 一粒の米ですら无駄にはしまいという慎ましさを持っていたのも 农业中心であった であった昔 日本人の らしが贫しかったからだけではないと思います.农业中心であった昔の日本人の暮らしが贫しかったからだけではないと思います.そういった个 自然崇拝という信仰心は 宗教とは びつきません.という信仰心 とは结 そういった个々人で持つ自然崇拝という信仰心は,宗教とは结びつきません.我从樱花情结重新解读日本人
人要“生如夏花之绚丽,死若秋叶之静美”,泰戈尔的这句名诗,在日本之所以被广泛流传, 无外乎是它一针见血地指出了日本人的悲观思想,暗自契合了日本人的悲情情结,那么,日本民 族的这种浓厚的悲剧情结,又得自何方呢?分析研究日本的文化历史,我们会发现,日本民族之 所以有这种悲剧情结,既是其自然环境陶冶的结果,也是其传统文化生成的必然.说其受自然环境影响,我们知道,日本是一个山多,水多,平原少而资源匮乏的岛国,自古, 日本人就教育后代, 自己国家是一个没有资源可供开发的环境恶劣的岛国, 打小儿就有意识的培 养孩子的紧张感和危机感,而地震,山体滑坡,火山爆发以及随处可见的喘急得河流,这些可知 不可知的自然变动,也无形中形成了日本人容易陷入焦急,失望的悲观情绪,这种无形有形的自 然压力,更是扩大了日本人的心理阴影,使得在狭隘的海岛上生存的日本人,一直以来就认为老 天不公,这些,都在潜移默化的生成着日本人的悲情情结.
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“花是樱花,人是武士”,樱花是日本文化的图腾,日本人的骨子里认为樱花是其生命最重要 的象征,“宁愿短暂,只要灿烂”是
日本人将武士比做樱花所取的原意,因为樱花在最美的时候, 也就是它将要凋谢的时候.因此, 日本人把樱花与大和民族的武士道精神相连, 樱花的瞬间开放, 瞬间凋零,就如同武士最光彩的时候,也就是他抛洒热血效命疆场的时候.将武士比做樱花, 也有寓意人生的悲观无常和凄美的视死如归的英雄悲情心结之意, 所以说, 日本人可以把死亡看作是樱花陨落时的璀璨悲壮的一种景观, 而这种超越生死的超然心态从日本 人与佛教的关系中也能找到根据,日本人出生的时候去神社洗礼,结婚时又大都采用教会式,而 当吹灯拔蜡时又毫无例外的都用佛教仪式做最后的生命告别, 外人对日本人的宗教观百思不解而 日本人自己却乐在其中.但在日本的所有宗教中, 佛教, 无疑是对日本人影响最深的, 究其原因, 就是佛教尤其是禅宗的轻生,出世,信仰命运等人生观教义与日本人的悲观主义心态极为契合, 是佛教,使武士对于命运有一种镇静之信托,对于前途所不能避免之死,有一种安之若素安之如 归的自然心态.从日本人的审美倾向亦能看出日本人的悲观主义思想, 与中国人看戏喜欢看喜剧 看大团圆结局不同,日本人无论是看书还是看戏,大都喜欢看悲剧,百十年来热映不衰的演绎日 本古代“47 浪人”为主复仇的悲情剧《忠臣藏》是之,前几年风靡一时的小说及根据小说改编的悲 情剧《失乐园》亦是之.其实,这些小说,戏剧,电影的故事情节都很老套,但却都蕴含着人生 短暂世事难料,美好的东西必将付之流水的悲情意识,因此,他们受欢迎的原因之一也可以说是 因为戏里同样体现着日本人的悲情情结.日本最古老的诗歌集《万叶集》有句名句为日本人万世所传唱,诗云:“色香俱散,人事无 常”.我们中国最古老的诗歌集《诗经》中,亦有传唱千古的八个字,谓曰:“窈窕淑女,君子好 逑”.对比可知,一个悲观,一个乐观;一个忧郁,一个明朗;其情怀之差,似有天壤之别.但 世世代代念叨“色香俱散,人事无常”的日本却能在悲情中奋发,而至今日傲视世界,而摇头晃脑 “好逑”了数千年“窈窕淑女”的“君子”中国,却仍在蹒跚着,日本是一个名副其实的悲情国度,但这 个悲情国度却常常让我们陷入困扰.(
神道は太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教である.日本列岛に
住む民族の间に自然発生的に生まれ育った伝统的な民俗信仰·自然信仰を基盘とし, 豪族 [1][2] 层による中央や地方の政治体制と関连しながら徐々に成立した.なお,神道には明确な教义や教典がなく , 『古事记』, 『日本书纪』, 『古语拾遗』, 『宣命』といった「神典 神典」と称される古典を规范とする.森罗万象に神が宿ると